原動力は飽くなきベンチャー精神
大倉喜八郎は勇猛果敢に時代を生き抜いた人だった。鰹節問屋の丁稚を振り出しに、乾物店、鉄砲商を経て、1873(明治6)年に、貿易、商業、土木建築などを扱う、大成建設のルーツである「大倉組商会」を創立。1887(明治20)年には、土木建築部門をもとに、大成建設の前身となる、日本初の会社組織による建設業法人「有限責任日本土木会社」を設立する。また、電力事業や毛織物業、ビール醸造業や製材・製紙業、ホテル業、教育事業など多岐にわたる事業も手掛け、92歳で大往生を遂げるまで、日本の近代化に多大な功績を残した。
商傑・大倉喜八郎の原動力は、その飽くなきベンチャー精神だ、と村上先生は語る。「喜八郎は決して一つの事業での成功に安住しませんでした。新事業を興すだけではなく、常に自分が活躍できる、面白いと思える新たなフィールドを求め続け、前へ前へと進む。まさにベンチャー精神の権化でした。それが大倉喜八郎という人の最大の魅力にして、成功の秘訣でしょう」。
事業を成功に導く3つの要素
喜八郎が活躍した時代は、封建社会の江戸から近代化をひた走る明治へ、何もかもが大きく転換する過渡期だった。混迷の時代にあって、喜八郎は、そのベンチャー精神をいかに発揮していったのだろうか。
「英語の“ベンチャー”は大きな危険を伴う冒険を指しますが、喜八郎のそれは決して蛮勇ではなく、時流を読み、熟慮の上で起こした勇気ある行動でした。私は、ベンチャー精神には、冒険心、洞察力、パイオニア精神の3つの要素があると思いますが、喜八郎は、この3つをフルに活かして事業を進めたのです」。
まずは冒険心。喜八郎は、人が尻込みするような要請にも応じ、多くの任務をやり遂げている。 例えば、1877(明治10)年、朝鮮が大飢饉に見舞われた際、内務卿大久保利通の要請を引き受け、救援米を届けている。その際、荷を渡す手続きに時間がかかり、船は彼らを置いて帰国してしまった。そこで、現地でイカ釣り船を調達。玄界灘で暴風雨に遭遇し、命からがら日本に戻ってくるなど、決死の覚悟で任務を果たした。 「こうした胆力ある行動で、明治政府から絶大な信用と評価を得ます。喜八郎は“政商”と揶揄されることもありますが、それは政府が頼るに足る任務完遂能力があったからこそ、といえるでしょう」。
さらに、先を見通す鋭い洞察力も兼ね備えていた。 「喜八郎は乾物の商いでそれなりに成功していましたが、横浜で黒船を目の当たりにし、国内動乱を予感して、維新の前年に鉄砲商に転じました。また、民間人初となる長期海外視察旅行を通じて、進歩的な会社組織や工業生産のあり方を知り、日本初の海外支店となるロンドン支店を開設。欧米のみならず、中国大陸にも事業進出し、幅広い人脈を築きました」。 こうした的確な情勢判断に加え、決断力と実行力にも富んでいた。 「当時の財閥があまり手を出さなかった製鉄事業に、旧満州でいち早く着手しています。社員を現地へ出張させる際も、日延べを許しませんでした。チャンスを逃さない迅速な行動の大切さを知っていたのです」と、村上先生は言う。 そして、パイオニア精神にもあふれていた。「当時の日本になかった毛織物の製造や大規模な民間でのビール醸造事業の立ち上げに関わり、優れた技術者を揃えた近代的な土木建築会社(前述の有限責任日本土木会社)を興すなど、前例のないことにも果敢に挑戦しました。また、関東大震災の混乱の中で進めた東洋初の地下鉄建設工事(東京地下鉄道 上野-浅草間)では、自ら社員を鼓舞し、日本人だけで工事を完遂。わが国の近代化を力強く牽引したのです」。
大胆さを支える、細心周到なる準備
アグレッシブさが際立つ喜八郎だが、かくも大胆に行動できたのは、事前の徹底した調査と考察が伴っていたからだ、と村上先生は強調する。
「喜八郎にとって、“大志放胆”と “細心周到”は事業を進める上での両輪でした。『戦い上手な者は、負けない状態に身を置いてから戦う』という兵法の言葉を好んでいたように、ビジネスの戦場で負けない状態、つまり準備万端整えることこそが勝利の近道だと考えていたのです」。
とはいえ、次々と事業を手掛ける中で、もちろん失敗もあった。
「私がすごいなと思うのは、喜八郎はたとえ失敗してもくよくよしなかったことです。『失敗があった度に失望するようでは到底凱歌はあげられぬ。失敗したところで少しも心配せず、おもむろに失敗の原因を探求してこれに処するのだ』と。こうした気概は、若い方たちにこそ、見習ってもらいたいと思います」。
自らの身命を賭して、責任を果たす
そして、もう一つ。喜八郎が重んじたものに取引先の信用がある。
「喜八郎は商人出身の思想家・石田梅岩の『石門心学』に傾倒していました。この学問では、本当の商売とは相手も立て自分も立て、双方が利益を得ることであり、正直さや信用、倹約や勤勉といった徳の実践が大切だと説いています。喜八郎は『言葉の命を重んじる』と言っていますが、言葉の命とは、言ったことに責任を持つことにほかなりません。彼はあらゆる局面で身命を賭し、この“命”を守ろうとしました」。
喜八郎が灯したビジネスへの情熱、信念から始まった当社の事業は確かな発展を遂げ、今や世界に広がっている。
「喜八郎が創立した東京経済大学の建学の精神は“ベンチャー精神”と“グローバリズム”です。これは世界各地でビッグプロジェクトにトライしている、現在の大成建設にも相通ずる理念ではないでしょうか。社名の由来である大倉喜八郎の戒名には、難局にあっても前へ進む勇気を持つ、という意味の『
村上勝彦(むらかみ かつひこ)
1942年東京生まれ。東京大学大学院修了後、東京経済大学専任講師、中国の対外経済貿易大学客員教授、北京大学および復旦大学の客員研究員を経て、1989年に東京経済大学教授に就任。1996~98年に同大学経済学部長、2000~08年に同大学学長、2008~11年に学校法人東京経済大学理事長を務める。現在、同大学名誉教授、公益財団法人大倉文化財団理事長